創始者コラム

べルポ会創始者によるコラムです。

はじめまして

1925年6月1日福岡県八女市生まれの私鶴健市は、1945年から母方の姓を継ぎました。
(旧姓古賀)自分の思いを発表して多くの人々のご批判・ご指導を得られる場はないか?と思い続けている時、ブログというものがあると教えられ、初めてブログの仲間入りをさせて頂きます。よろしくお願いします。私は最近人類が「正しい基準」を見失っていると思います。この思いが強くなったのは、1945年即ち私が20才の時迎えた第二次世界大戦の日本敗戦の体験からです。先ず、この体験に基づいて戦争とは、天皇とは、神とは、命とは、心とは・・・等々、いろいろなことについて、即ちいろいろな認識についての「正しい基準」についての思いをめぐらすようになりました。次から、このことについて書いて参りますので、諸兄の御批判を頂ければ幸甚に存じます。


仏サマにダマシ取られた西瓜

私は小学校の頃、西瓜が大好物でした。

お盆にはその西瓜が仏壇に供えられます。小学校に上がったばかりの私は、学校から帰ったら外で遊ぶ前に先ず西瓜を食べたい一心で急いで家に帰ります。ところが、仏壇の前にはお坊さんが座ってお経をアゲている。西瓜はまだ食べられないな、と思って外へ遊びに出ても気が気ではない。家へ帰ってみると、お坊さんは父とお酒を飲み始めている。私はおふくろに西瓜を食べたいと言っても、「アトで!」といわれ、仕方なく遊びに出る。又家に帰ってみると、お坊さんが風呂敷に包んだ西瓜をブラサゲて帰ろうとしている。私は仏壇を見て驚いた。西瓜がナイ!おふくろに「西瓜は?」ときくと、仏サマに上げたと。私は怒り心頭に発し、お坊さんを2Km程離れたお寺まで尾行した。そして、おふくろと一緒に拝みに来るお堂のお釈迦様の前を見ても西瓜はない。いつもお食事を頂く座敷の方を庭の木の蔭からのぞくと、お坊さんが座ってフンドシ姿でウチワを使っている。そこへ、ナント簡単服姿の坊守さんが西瓜をお盆にのせてもって来て食べ始めた。絶対間違いない!アノ西瓜は俺の西瓜だ!仏サマに上げると言って、坊さんが自分で食べている。仏サマに西瓜をダマシ取られたイカリで泣きながら家に帰りました。この体験は私のイノチ(生命)にかなり強くインプットされ、それが敗戦後の私の「認識と価値の判断評価」の基準の追及に当たり大きく影響したと思われる出来事の一つです。
次は、「ブラジルに移民した人達は落っこちる!」


ブラジルへの移民は落っこちる!

20世紀初頭、日本は貧しかった。ハワイやブラジルに新天地を求めて移民団が海を渡った。小学校1年生になって、教室で初めて直径40?位の大きな地球儀を見せられ、赤色に塗られた日本が余りにも小さな国である事に驚いた。先生が、「みんなブラジルという国を知ってるか?」と聞いた。みんな元気よく手をサッと挙げて「知っています」と答えた。先生は地球儀をクルクルと廻して、「日本が上だとブラジルは真下になる」と言った。私は、ビックリした。サッと手を挙げて、「先生!ブラジルに行った日本人は落ちてしまう!」と叫んだ。先生は、「心配イラン!地球には引力というものがあるから落ちないんだ。」と言った。私は成人してからも、この疑問はますます深まった。宇宙は限りなく広大である。その引力と、地球の引力と太陽系のまた銀河系の・・・・引力等々との関係は?流れ星を見て、又いろいろと思いめぐらすようになった。引力の元は?
次回は、「おふくろの尺はなぜ長い?」


おふくろの尺はなぜ長い?

私の幼少時の度量衡の尺貫法は、現在では変わってメートル法が使われる。長さはメートル、質量はキログラム、時間は秒を基本とする十進法の度量衡の単位を経て国際単位系に発展。ところで、幼い頃、大工さんの仕事を見ていて、切り捨てられた板や細い木を貰って遊んでいました。ある時、大工さんに「お母さんに頼んで1尺の長さに切って貰って来なさい」と言われて、細い木をおふくろのものさしを借りて1尺の長さに切って貰ったものを大工さんに見せたら、「ケンちゃん、これは鯨尺(くじらじゃく)だよ!」と言われた。1尺に「鯨尺」と「曲尺(かねじゃく)」という二つの長さの違いがある事を初めて知った。おふくろが裁縫の時使うのは鯨尺で、大工さん達が使う尺は曲尺だという事を知った。曲尺の1尺は約30.3?。鯨尺の1尺は曲尺の1尺2寸5分で約37.8?にあたる。畳の寸法にも京間(きょうま)と田舎間(いなかま)の違いがある。京間とは曲尺の6尺5寸(2メートル弱)を1間(いっけん)とした住宅・畳の寸法で、主として関東地方で使われる田舎間(6尺を1間とする)に対して言われる。最近の住宅の間取りで、6畳間とされる部屋が古い家の6畳間に比べて狭いのは、この違いによる。最近では田舎間が多く使われるようになったのである。いつの間にか、生活の中でのいろいろな基準が変わって、どれが正しい基準なのか?・・・若い頃、アメリカでハイウェイを車で走ってスピード制限40という数字を見て、日本の道路に比べてまっすぐな広い巾の道路に時速40?とは!「どうなってんの?」と思ったが、40?ではなくて40マイルだったのです。(マイルはヤード ポンド法の距離の単位、約1.6?)
次回は「不思議な七五三」


七五三の不思議

私は、数詞の「ひとつ」即ち「一」とは何か、と思いつづけて来ました。辞書には、横に一本の線を引いて、天・地万物の根元を示し、ひいて「物事のはじめ」「数のはじめ」の意、ともあります。自然数の最初の数、零の次の整数(零およびそれに次々に一を加えたり引いたりして得られる範囲の数)、ともあります。零とは数量が全くない事。正数・負数の境目になる値、とも。ならば、正と負という相対的特質の二が帰一する根元だと言えなくないか?又、数量とは何か?漢字の生い立ちからみると、數とは声を出してかぞえる意の左側の字と、手で扱う意の右側の字とで、かぞえるとなったとされ、量とは重さをはかる意を表している。この数量が全くない、それを零と。そうすると、この零と「空」(クウ、そら、から、むなしい等の意)と どう違うか?また疑問がわいてきました。数に奇数と偶数という二つの特質があります。偶とは人と右側の字(人がならびあう意)とで、「つれあい」とか「たぐい」等組になり、二で割り切れる数とされています。奇数は二で割り切れない数です。奇は大(人の立ち姿)と可 カ→キ (一本の足の意)で、人が片足で立つ意で普通と異なるさま。例えば、呼吸もハクかスウかどちらか一つだけでは生きられません。又、奇数の中で 1、3、5、7、9 の中の 7、5、3 は①特に祝い事に使うめでたい数とされ、②本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜をつけた盛大な宴、③又、子供の成長の祝で数え年で男は三才と五才、女は三才と七才の11月15日に、晴れ姿で氏神などに参拝するなどの行事として伝えられています。今では七五三の宮参りで千歳飴の袋がつきもので又写真屋さんも大忙しのようです。私としては、このような七五三の宮参り行事は理解に苦しむところで、果たして子供の成長の祝だったのだろうかとの疑問をもちました。即ち、三才という第一反抗期と五・七才という第二反抗期の年令に成長した子供の矯正のための行事ではないかと。「育」という漢字は、子(♀)が逆さまになったさまと肉月の月とからなり、逆さ(頭が下)で母体から出て来た肉の塊が自然(じねん)に大きくなる事を表しているとされています。自燃(じねん)の育成の力です。胎児は母体を出た時、「オギャー」と叫びます。「叫」という字は口と音符のキュウ 丩 (ふりしぼるの意)とからなり、声をふりしぼってさけぶ意です。宇宙自然(じねん)の法則、いとなみによって母の体内と体外という二つの環境で育まれる赤ちゃんの個としての大氣の中での呼吸という初めての生命の活動(生活)の第一声です。天地・万物の根元の「一」! (次回に続きます)


七五三の不思議つづき

母体から出た瞬間に大気に触れてオギャーと体からしぼり出す叫び(呼吸する)、そして、まだ目も開かないのに母親の乳房をしっかりと捕えて母乳をうまく摂取する。これ等の活動からは、宇宙の中の一存在である人類の思考を超えた所謂不可思議な宇宙・大自然本来の自然(じねん)の法則として「森羅万象・天地万物それぞれの個とまわり環境との調和性の作用がある」と思われます。私達人間は自分自身でしか生きられない、がまたまわりなくしては生きられない。(個と全、人類と自然界、精神と肉体等々の調和性)さて、新生児は胎児としての母体内環境における自然的調和性から、出産後のヒトの社会環境との調和という違いに身を置く事になって、強い違和感を抱く状態即ち反抗期を迎える事になる。それが、三つ児のタマシイ・・・と言われる3才、そして男の子は5才、又女の子は3才と7才の体調変化、反抗期に当たる。この時期に、神仏にすがって正しい人としての道を踏ませる為の行事が七五三の宮詣りだという説もあり、私はこの説の方が理にあっていると思っています。しかし、ここで大事な点はすがる神、仏とは何かという事だと思います。七五三の宮詣りをただ単に迷信や盲信のたぐいでの行事なら、それは邪悪の行為といわざるを得なくなります。私がこのような事を思うようになったのは、先ず一つには幼い頃の西瓜のウラミ(第2回「仏さまにダマシ取られた西瓜」を参照)から仏サマ不信に陥った事。二つ目は、幼少時から20才迄信じ込まされた欽定憲法の下での天皇陛下が現人神(あらひとがみ)であるとの教育態形に対しての不信。そして更には、宗教はアヘンよりこわい!又、戦争という国家間集団殺人の原因として宗教・経済が挙げられる歴史的事実等から神・仏を信仰する事に慎重になったようです。


謹 賀 新 年

今年もまた生き甲斐のある愉しい1年間を目指します。倍旧のご指導を賜りますようよろしくお願いします。去年の暮から正月3日迄、冠雪の由布岳を仰ぎ見ながら、ベルポ会の湯布院研修所「鶴の巣」で、すがすがしい気分で過ごさせて頂きました。正月とは1年の1番はじめの月という意ですが、久し振りに睦月(むつき)に継いで如月(きさらぎ)、弥生(やよい)、卯月(うづき)、皐月(さつき)、水無月(みなづき)、文月(ふみづき)、葉月(はづき)、長月(ながつき)、神無月(かんなづき)、霜月(しもつき)、師走(しわす)という昔なつかしい1年12ケ月の言葉を想い出しました。新聞・テレビでは例年の「初詣」風景を報じていました。私も、第2次大戦の日本敗戦までは、必勝祈願の為に初詣はかかした事はありませんでしたが、前のブログに書いたように神・仏を以て単に人を幸せへと導く対象とする所謂宗教という一般的認識に疑問を持った私は、「生命とは」そしてまたその「生命の活動(生活)とは」、「平等とは」、「自由とは」、「権利と義務とは」、「何故争うか」等々について思索するようになりました。そして、最近特に思う事は、「正しい基準が見えない時代」という一点です。
ー次は「正」という字ー


「正」という字

「正」という字は、「一に止る」と書きます。この「一」は人間の膝がしらを示します。「正」の字は、本来  膝がしらと、 ふくらはぎと、 足あとを合わせた形を表しているとされています。この形から ⇒ 正 足 疋 膝から下の「真直ぐで曲らない部分」の意から「ただしい」「ただす」となったとされています。2本の足で歩く人間。膝がしらで屈折して両足が交互に動いて歩く。「歩」という字は左と右のあしあとが上と下に並ぶ形で、前足に後足がついてゆく相対の活動が所謂歩くとなっています。このように、人間の歩行は膝がしら「一」が基準となると示しています。人類の歩行の為の一基準も、人間が創り出したものでなく自然(じねん)の法則に基くハタラキであり、生命維持の活動に一番大事な相対の活動の呼吸というハタラキも亦然り、です。このように観て来ると、私は私達の先祖が自然のハタラキを最も畏敬して生活の基本の知恵として来た事を漢字の生い立ちから感じるようになりました。正、邪、善、悪という言葉があります。正と邪(不正)は、認識の対象である真理の判断の基準であって、一方善と悪は、価値の判断の基準であるという説もあります。人間は幸せを求めて生きて行くといわれますが、物事を正しく認識しないと不幸な目にあう事は誰でも体験する事だと思われます。人間は、自分自身でしか生きられませんが、まわり(環境)なくしても生きられません。ひとりという個人と複数の人々、即ち個人と社会があります。個人とその属する国家があります。そして国家には国民生活の基準、よりどころとしての憲法があります。-次回は「2つの憲法の体験」-


二つの憲法の体験

「私は日本人として20才迄(第二次大戦の日本敗戦の年)は、欽定憲法である大日本帝国憲法の下で、そしてその後は改正された現日本国憲法の下で、現在迄生きてきました。 同じ一人の日本国国民として二つの憲法の下で生きてきたという事は、いうまでもなく憲法は治世主権者によって変わるという事実を体験したのです。憲法とは、国家の統治体制の基礎を定める根本法です。形式により成文憲法と不文憲法、制定者により欽定憲法と民定憲法そして協定憲法、条約憲法などに分類されています。尚、近代的成文憲法は1776年のアメリカのバージニア州憲法に始まり、基本的人権の保障と民主的な統治機構を特徴としています。わが国では、明治22年2月発布された大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)と、第二次大戦後その全面的改正として昭和22年5月から施行されたのが現行の日本国憲法であります。旧、大日本帝国憲法は欽定憲法(君主の命によって制定する)で、19世紀のドイツ諸邦の憲法、1814年のフランス憲法等が之にあたり、議定憲法や民定憲法に対するものとされています。この大日本帝国憲法のもとでは、国民は現人神(アラヒトガミ)即ち人間の姿をした神サマである天皇陛下の子供即ち赤子(セキシ)であるとされて、神国不滅、忠君愛国、滅私奉公挺身報国、神風特攻等々の精神教育が強制的になされたのです。現在、イスラム過激派のテロが問題視されていますが、「当時の日本は一億総国民が火の玉となっての自爆集団だった」と、アメリカの友人が私に語った言葉がいまだに忘れられません。私が20才で体験した「不滅のはずの神の国の敗戦!」。そして、新憲法に変わったとたんに「天皇は神ではなく普通の人間だ!」という事実に直面した時の混乱ぶりは、その後の占領軍の統治下、そして新憲法のもとでの教育と社会環境で育った70才前の人々にはとても理解できないだろうと思われます。
-次回へー


二つの憲法の体験つづき

国民の生活のよりどころである憲法。その憲法が敗戦で変わったという事は、私にとっては「憲法は正しいモノ」との思いが間違っていたことになります。思い起こせば、歴史的にみても憲法は主権支配者によって変わった事は学んでいた筈。そうなると、自国のそれぞれの憲法の違いがあることも、又改変されることも本来当然の事であると納得できました。ならば、人類は各国独自の憲法を有し、その憲法はそれぞれ違いがあっても当然。国のあり方が違うなら各国間で争いが生じるのもまた本来当然の事である筈。争いがない人類世界を目指して、現在国連で調整しようという事になっている。各国が合意できる、そして正しい合意といえる法則の国連憲章が生まれました。しかし、各国合意できない事態が続出しています。ここで、私は「憲法は国家統制の根本法である」という「憲法という言葉」の認識は正しいと思います。憲法そのものが必ずしも正しいとは言えないということです。たとえば、裁判官は「法を基準として正・邪・善・悪を裁く職責のひと」「裁判官という言葉」の認識は正しいと思います。しかし、だからその人個人もまた正しいヒトとの評価は正しくない事もあります。裁判官でも法に触れる悪いコトをする人もいるのです。私は敗戦の体験から、このような認識と価値判断が正しい基準の欠如から混同されている例が多いこと、「正しい基準を見失った時代」の中に生きていること、に気づき始めました。

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